寛永二年(1625年)首玄院日立上人によって浅草今戸に水野家の帰依を受け、四千坪の地を寄附せられ再建された。当山第七世日真上人の時、山形の藩主水野出羽守によって、七堂伽藍堂塔が完備された。以来、代々水野家の帰依を受けてき
た。
大正12年(西暦1923年)の関東大震災で灰燼となり、昭和二年現地に移転、寺内には、尊皇の先覚者藤井右門の墓、日本画速水御舟、今村紫紅、小村雪岱、金工の後藤家、漆芸家川之辺一朝、そして水野忠邦の子忠精、さらに孫である忠弘などの墓がある。
 藤井右門(1720〜67年)は直明、享保20年(1735年)京都に進学し、竹内式部を知り、皇学所教授として尊王論を説いた。宝暦事件(1758年)に連坐して逃亡。江戸の山県大弐のもとに身を寄せて、幕府の専横を非難し、倒幕を計画したが、明和3年(1766年)町奉行に捕らえられ、山県大弐は死罪に、右門は獄門に処せられた(明和事件)しかしこれらの思想は、やがて蒲生君平、高山彦九朗らにひきつがれ、幕末には幕府の封建制をゆさぶる力となった。
 速水御舟(明治27年〜昭和10年)東京に生まれ、松本楓湖に日本画を学び、紅児会に加わり又、今村紫紅らと赤耀会を組織し、院展に新風を送る。異常な迫真的描写と近代的な構成によって日本画の近代化に一道標をたてた。代表作「京の舞妓」「名樹散椿」など。
 今村紫紅(明治13年〜大正5年)は横浜に生まれ、松本楓湖に師事し、小林古径、安田靭彦らの紅児会に加入した。明治40年、日本美術研究所で岡倉天心の指導を受け、大正3年には日本美術院の再興に参画し、日本画の革新者として活躍した。
 尚、当山の寺暦もたびたび火災にあい今日残されているものはない。

 
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